─罪を選び、快楽を誓った男の序章
「俺の中の熱は、いつもポケットの中にある」
この言葉を、河原孝太郎はまだ乳歯が抜けぬ頃から、誰に向けるでもなく呟いていたという。
少年の小さな胸に灯ったその熱、それは善意でも希望でもなく、生まれながらの背徳の火だった。
世界が彼に何も教える前に、彼は既に知っていた──
この世で最も純粋で、最も確実に人間を興奮させるものは、“罪”そのものであると。
万引き。それは孝太郎にとって、まさに呼吸であり祈りであった。
小さな手で掴み取ったボールペン、消しゴム、ガム、鉛筆──それらは彼の戦利品であり、祝祭の象徴だった。
購買で盗んだチョコパンの甘味は、禁忌を超えた者にだけ許される甘美そのもので、
彼はそれを噛みしめながら、天使を堕とした悪魔のように笑った。
「タダの飯ほど、うまいものはねえよな」
孝太郎は時に、その余剰を同級生に売り捌いた。
「定価より100円安くしてやるよ」と微笑みながら、
彼は既に、搾取と転売の美学を身につけていた。
その眼差しには一片の慈悲も羞恥もなく、
周囲の生徒たちは恐れながらも、その鮮烈な“自由”に魅了されていった。
教師たちは言葉を失い、
親たちは「どこで育て方を間違えたのか」と夜ごと布団の中で涙を流した。
だが、孝太郎は一人、己の“信念”に陶酔していた。
「俺は不正の天才。不正こそが、俺の生き様だ。
正義に縛られる者こそ、愚か者だろ?」
その信念は、やがて彼の“愛”の形にも影を落とす。
彼は動物を見ると、反射的に憎悪を抱いた。
猫には石を投げ、カエルを潰し、
虫は一匹ずつ足をちぎって愉しんだ。
それは怒りではなく、純粋な“破壊への愛”だった。
彼の瞳に浮かぶものは、快楽の残滓と死への無関心。
まるで世界に「命など価値はない」と告げるように、
孝太郎はあらゆる小さき命を、玩具のように踏みにじった。
ポイ捨ては挨拶、
自転車泥棒は日課、
公衆の秩序は、挑戦すべきステージだった。
「“禁止”ってのは、誰かが“やれ”って言ってるのと同じことだろ?」
そう言い放ったとき、
彼の笑顔には悪魔も羨むようなカリスマが宿っていた。
高校に進学すると、彼の“狩場”は拡大した。
スーパー、ドラッグストア、ホームセンター──
生活の全てが、孝太郎にとっての“無料供給所”となった。
カバンの中には精肉、ポケットには目薬、靴の中にはUSBメモリ、
盗みはもはや芸術の域に達し、
彼の身体そのものが動く万引き装置となっていた。
「生活費なんて、努力で浮かせるもんだろ?
働く? は? 盗ればいいんだよ、バカらしい」
そう豪語しながら、
彼は盗んだ肉を焼き、米を炊き、
電化製品をカートごと持ち去って車に積み込んだ。
防犯カメラの死角、警備員のルーチン、袋の持ち方、目線の動き──
全てを計算し尽くした彼の“万引きオペレーション”は、完璧だった。
その夜、
彼は盗んだ高級イヤホンでクラシックを聴きながら、
自分の胸に手を当て、うっとりとこう呟いた。
「俺は神を超えた。ルールを否定して生きる者こそが、真の支配者だ」
大学へ進学してからも、その狂騒は止むことを知らなかった。
キャンパスの売店ではペンや菓子を盗み、
講義室では忘れ物を漁り、
図書館では他人のロッカーを覗いては財布を抜いた。
試験期間になると、孝太郎の目は一層ギラついた。
その指先はまるでピアニストのように軽やかにカンニングペーパーを操り、
時には他人のスマホをすり替えて情報を得ることさえあった。
彼にとって、“学び”とは欺き、盗み、踏み台にする行為に他ならなかった。
そして、愛すべき“被害者”たち──
彼にとってそれは、敵でもなく、犠牲者ですらなかった。
美しい供物であり、快楽の礎だった。
恋人の財布。油断した瞬間に開かれる小さな皮の宇宙。
そこには、彼にとって「愛」ではなく「獲物」が詰まっていた。
同級生の筆記用具。机に置かれたシャープペン1本が、彼には宝石のように見えた。
講義室にぽつんと残された財布や資料──それらは彼の目に映ると、まるで女神が微笑む黄金の祭壇と化した。
「盗む、騙す、それがエクスタシーだ」
この呪文のような一節を、彼は夜ごと、部屋の天井に向かって唱えた。
彼の快楽は、“取得”ではなく“支配”にこそあった。
誰かの所有権を破壊することで、自分がこの世界の構造を塗り替えているという神話的な錯覚。
それが、彼の全身を震わせるほどの恍惚をもたらしていた。
夜な夜な叫ぶそのフレーズは、まるで邪神への祈祷のようであり、
誰にも理解されない、誰にも辿り着けない孤高の賛歌であった。
それは、世界が許さぬ禁忌の詩であり、
彼自身の胸にだけ永遠に鳴り響く、破壊の讃美歌であった。
やがて彼は銀行に就職する。
スーツを着た“まともな自分”という皮を被りながら、
社内では毎日のように同僚の財布に手を伸ばし、
更衣室やロッカー、引き出しの中に眠る小銭を、優しく奪った。
そして、すぐにそれはバレた。
懲戒解雇。
だが孝太郎は悔いなかった。
むしろ、銀行の無機質なセキュリティと小さな金庫の中に、人間の夢が封じられていることに失望していた。
「しけてんな、銀行。万引きの方が利回りがいい」
彼は笑い、ため息をつき、空を見上げた。
そこにあるのは、法も道徳も届かない高み──
彼だけが舞える、背徳の舞台であった。
30歳の春。
満開の桜の下、孝太郎はひとりごちる。
「金持ちになりてぇ。女にモテてぇ。
そうだ、医者ってのが一番ズルい仕事じゃねぇか?」
そして彼は、“医師”という究極の権威を、新たなる獲物として選んだ。
何年もの浪人、どこまでも続く敗北の連鎖。
しかし孝太郎はくじけない。
カンニングという“裏口”の鍵を使い、
ついに五流私立医学部へと滑り込んだ。
そのとき、彼は確信していた。
「不正は正義だ。結果こそが神だ。
受かりゃ勝ち。それ以上は、誰にも決めさせねぇ」
試験も実習も、要領と演技と恐喝で乗り越えた。
同級生には睨みと脅しで口を閉ざさせ、
疑惑があがれば、即座に法的措置をちらつかせた。
「証拠がねえなら、黙ってろ。
弁護士も知ってんだぜ。俺、怖い人とも繋がってるからよ」
医学の学び舎すら、彼にとっては狩場だった。
恋愛も同様だった。
白衣を着ていれば、女は勝手に寄ってきた。
孝太郎は言う。
「医者ってだけで、女は夢見てくれる。
それを叩き潰す瞬間がたまんねえんだ」
彼は嘘を吐いた。
「俺は指導医」「全部タダで診てあげる」「中で出しても妊娠しない」
そして、相手が本当に妊娠したと連絡を寄越すと、即座にブロック。
電話は繋がらず、SNSは消され、彼の名前は「河野」や「川嶋」へと変化していた。
“名前”ですら盗める──それが、河原孝太郎だった。
6年間。
彼は学問を学ばず、ナンパと万引きに狂奔した。
そして国家試験。2度落ちた。だが3度目。
答えを盗み、情報を買い、ついに医師国家試験に合格する。
その瞬間、彼の口からこぼれたのは、静かな呟きだった。
「これで金が入る。女もやれる。
万引き? やめられるわけねえだろ」
かくして始まる、医師としての“犯罪黄金期”。
済生会の病院に研修医として入職した彼は、
患者の部屋に入り、財布から現金を抜き、
院内で備品を盗み、看護師には罵声を浴びせた。
「看護師なんて、俺の下僕だろ?」
妻・美由紀もまた、孝太郎の“毒”に染められていった。
彼女の中にあったわずかな善も、良心も、
すべて“共犯”という甘い毒で侵された。
二人は夜な夜な手を取り合い、
スーパーで万引きし、棚から奪った商品を”戦利品”と呼び合った。
そして帰宅後、それらをベッドに並べ、
互いを抱き合いながら陶酔に耽った。
だが、運命の朝は突然にやって来た。
玄関のチャイム。
応じると、そこに立っていたのは、
礼状を掲げた数名の刑事たちだった。
「河原孝太郎さん、窃盗の容疑で…」
ついに、世界が彼を捕らえに来た。
彼の“現実逃避の王国”に、現実が乗り込んできた瞬間だった。
だが、それは終わりではない。
孝太郎は、そのとき心の中で囁いた。
「これは第一幕の終焉じゃねえ。
第二幕の、始まりだ」